シン・エヴァンゲリオン

シン・エヴァンゲリオンを観た。

 

思っていたよりもグッとこなかったし、思っていたよりも心に沁みた。
公開前から全然心は動いていなくて、19年07月06日、東京新宿で観た冒頭の映像をピークに、僕のテンションは落ちていく一方だった。さすがに最初に20年6月公開の時にはそわそわとしていたが、公開日が伸びて、21年に入るともうエヴァの公開について一喜一憂する事はなかった。
チケット争奪戦には加わらなかったし、前日まで「僕はいつ観るんだろうなぁ」なんてぼやっと考えていたりもした。……とはいえ、公開3日後には観たのだけれど。

エヴァは、弟の塾の先生が生徒たちに「凄いアニメが始まる。絶対に観ろ」とかいって白黒コピーのプリントを配ってきたところから知った。(当然もう手元にないけど、漫画版1巻のコピーだったと思う)小学生が、初めて録ったビデオをコマ送りで観る作品となった。20話の濡れ場は居間で流しづらくて、思わず別部屋の小さいテレビで観た。家族旅行先で24話を観て、初号機がカヲルを握ったまま動きがないことに家族の前で気まずかったのを覚えている。

 

……なんて、シン・エヴァの感想を書き始めたのにどうしても自分語りになってしまう。結局そういうことだ。エヴァはもう人生と切っても切り離せない。それは当事者である庵野監督だけでなく、スタッフ・視聴者含めどうしても人生を語ることと同義だ。
だから、今回は人のレビューを読んでも、対面じゃない限り何も言わないようにしようと思った。シン・エヴァが面白いという人もいるし、絶対的に許せない人もいる。そして、僕は今作については「駄作だ」って言われても全然構わないって思った。それがその人の人生だ。興行収入100億行く!とか嘯いている映画ライターもいたが、僕はそんな作品だと思わない。行ったら奇跡…とは言わないが、それだけエヴァに人生を狂わされた人間が多かった、と僕が見誤っていただけだなと思う。

 

 

シン・エヴァンゲリオンで僕がいちばん素晴らしいと思ったのは東宝スタジオの演出だった。世田谷・砧の第8ステージであることを暗示(明示?)する一連のシークエンス。エヴァは特撮から始まって特撮で終わっていく。人類補完計画をはじめ、作品内での設定が、どれだけ大きくなろうと、作品外での考察がどれだけ大きくなろうと、それだけは変わらない。エヴァはEoEを経てヱヴァになったけど、最後までエヴァだった。
作品の終末についてもTV版、EoEに続き(粗っぽく言えば)またも人類補完計画であった。最初はまたそれかよ、と思いながら観ていたが、次第にそこに着地することに安堵と感謝が湧き起こってきた。庵野秀明がやろうとしていることは25年前から変わっていないんだという驚愕。そして、今作の落とし前がどういう描写になるのかという――今まで観てきたけれど、誰も観たことのないエヴァを観られるという高揚。

面白くないわけがなかった。

破で突破したと思ったヱヴァが、Qで「またあのエヴァが帰っきちまった…」と当時勢の頭を抱えさせる勢いだったのに対して、今なら言える。エヴァが面白くない訳ないじゃん、って。

 

どうもエヴァの事を書いていくと脱線していく。
東宝スタジオ、マイナス宇宙でのやりとりはいくらでも考察ができる。そもそも描写からしてメタであり、それまでがキャラクタの劇中劇だったと言うこともできるし、スタッフの遊びとも言える。あそこにある機材はきっとシン・エヴァ制作に使ったものだろうから――
とか、考察はつきないんだけど、もはやそんな考え事は僕には要らない。それは破を観て、Qを経た後に自分の中で卒業した。「答え合わせをしようとする」のは終わった。エヴァは、フィルムと、そこから自分が受け取った感情だけで完結すべきだと思った。それがたぶん、冒頭に書いた「テンションの上がらなかった理由」だ。もはやエヴァは自分の人生の一部だ。他人とあーだーこーだ言うのはきっと楽しい。けど、誰かの指摘を受けて「なるほど、考察が間違っていた…」などと振り返るタイミングは終わったのだ。
僕は、東宝スタジオでの殺陣が始まって、改めて「エヴァは創作であり、過去作品への愛で溢れている!」という叫びを、猛烈な叫びを身体に浴びたように感じた。そこからは旧人類補完計画を想起させる演出が続いてくが、スタジオ描写があったことで過去のそれらより肯定的なメッセージだったように思えた。

 

 

そんな一点突破な事だけじゃなくて、シンエヴァ全体のことで言うと、何より各メインキャラクターにしっかりと作品世界での終わりが与えられた事が幸せだった。もう出てこないと思っていた同級生、トウジ・ケンスケ・そしてヒカリ(!)にすら先の人生が与えられ、キャラクターとしての着地点が与えられた。続投キャラだと、とても大きな変化がないっていうのはマコト・シゲル・マヤのオペレータ3人くらいじゃないだろうか。
それは旧来のエヴァンゲリオンという作品を考えたときに、ありえない事だと思う。
弐拾六話は終始シンジの描写に終始し、26話でも基本シンジを軸に進んで最後は例の「気持ち悪い」で終わる。おおまかなストーリーラインは前2回と同じなのに、物語を彩ってきたキャラクターにちゃんと幕引きをあげるのは、とても優しい事だと思った、そしてそれが、僕に「ほんとうにエヴァは終わった」と感じさせた大きな理由だと思う。……そう、人生。シン・エヴァは僕の人生でもあったし、キャラクターの人生でもあった。
良かったね、シンジ。良かったね、アスカ。良かったね、みんな。

 

 

そうそう、カップリングについてあーだーこーだ叫ぶ人達がたくさん出るに違いないけど、そういう人達に批判されてもなお、僕は今回のキャラクタの去就が完璧だったって思う。観ている最中はシンジとマリがくっつくの!?って思ったけど、鑑賞後頭の中で考えをまとめていると、シンジがマリの傍にいるのは当然のことのように思えた。(恋人同士かは、ちょっとまだ判断がつかない)
シンジとアスカ、シンジとレイ、シンジとカヲル…旧世紀に叫ばれたメインのカップリングは、破綻していくように思う(…っていうと、そのCP勢に罵倒されちゃうね…苦笑)。実際、SF的な要素を抜いていちばんありそうなシンジ・アスカはEoEの描写で上手くいきそうにないことが強烈に描写されている。


そこでアスカ・ケンスケだなんて!なんて完璧なんだろう。劇中は互いに上手くいく訳ないだろうという諦観めいた、別れたものの憎からず…といった距離感の描写しかなかったけれど、補完計画を経て第3村に落着したエントリープラグのシーン。あれを見て良かったね、アスカ!と思わない人はシンエヴァを読み間違えていると思う。

シンジのペアがアスカやレイじゃなくて、なぜマリになったか…破の段階では、2人を選ぶ事もあったかもしれない。けれど、時は流れた。綾波は取り込まれて死んだ。アスカは、彼の知らない14年を生きてしまった。(実際、互いに「好きだったよ」と言葉をかけあっている)そうしたたら、アスカ・レイを選ぶ/選べる訳がない。

破、Q、シンエヴァと来て、シンジに覚悟ができ、一歩大人になったからこそ、2人じゃない。カヲルも、シンジを甘やかしたいだけだから、未来に踏み出すパートナーとしては駄目だ。
マリが結局何者だったか、最後まで判らないし――庵野が結婚して幸せに序破を世に放ったことからマリ=安野モヨコって言ってる人もいるけど、僕はマリは一貫して単に「庵野秀明じゃない人」だと思う。破から映画3作を経て、それがかみ砕かれた…庵野秀明が動かすキャラになったという印象だった。だから、マリなんだと思う。インパクトがなくなった世界で、シンジと手を繋いで駆けていくのは、作中ではマリしかいない。だからモヨコだって訳じゃなくて、あれは「他人」ってことなんだ。(それもあって、恋人かどうか、っていうのは僕には判断つかない)

 

 

 

Aパート。
最初に書いておきたいのは、3.11云々っていうのはもう辟易してるっていうこと。たった2日間くらいでも、「もう311はいいよ」「311を経てエヴァは」とか、そういった感想が聞こえてきた。

違うでしょう。Qがあって、あの世界にはサードインパクトがあったんでしょう。そして、ギリギリの生活をしているだけでしょう。
確かに、311があったから、描写――そして我々観客に与えるイメージは「もし311を経験していなかったとき」に比べて圧倒的に違うと思う。じゃあ、311がなかったらあのAパートは無かったのか?
絶対にありますよ。Aパートは必要です。今回の着地地点に繋がるために(まぁ、311を含む、実際の歴史があったから今現在の庵野秀明がある、と言われればそれまでだけど)ネルフ・ヴィレ以外の「人々」との交流・描写がシンジやアスカには必要なはず。311を横に置いて語るのはいい、けれど「まず311があって」とAパートを語るのはお門違いだと思う。Aパートは、シンジが再びエヴァに乗るまでの、「オトシマエをつける気になる」パートだ。
だから、あんなに長い尺を使って描かれている。(エヴァの戦闘パートより長い時間使ってAパートは描かれている…筈だ)これまでのエヴァンゲリオン…例えば、TV19話だったら、Aパートは要らない…とは言わないが10分もあれば十分だと思う。だけど、それでは今作のラストには繋がらない。マイナス宇宙で、アスカやレイ、カヲルの救済を願い、他者や世界の復活を自分よりも優先して行うシンジには、繋がらないのだ。第3村で、大人になった友人達、苦しい中生き抜く人々に癒されたからこそ、あのシンジがある。それに対して、311がどーのこーのは必要ないと思う。(くり返すけど、添え物として置くのは当然構わない)

 

また、Qの時に「なぜ14年飛ぶ!?」って思ったことに、すごい良い具合に回答になっていることも、このAパートの素晴らしさがあると思う。97年のEoEから大体14年で12年公開のQ。確かQのパンフに「過ぎてしまった年月を、役者の方に合わせた」っていう意味合いの事が書いてあったけど、子ども達が14年後だと29歳近辺、つまり昔のミサト達と同じ年齢になってるんだよね。(新劇は判らないけど、旧エヴァ19話は2016年5月頃。シンジの誕生日は6月なので、同じだとすれば破のラストは15最直前。)
眠っていたシンジはともかく、アスカの心が大人になって、トウジ達がシンジを支える側になるまでに十分な時間。なぜ時間を飛ばしたのか、そんなの必要ないじゃないか、破の予告を返せ、というQの時の我々の叫びに対する、かなり上等な――そして斜め上のアンサーだと感じた。こうじゃないと、EoEで到達できなかった地平に辿り着くことができないよね、って今では思える。新しいエヴァ


…さっき考察はどうでもいい、って書いたのに裏読みかもしれないけど、これは表に見えるキャラクタの……世代の話だから、これくらいはいいよね。

 


ちょっとAパートの話から逸れるけど、破予告は、もうやらないだろうなって確信めいたところに辿り着いている。庵野が物語の省略をするから、というのもあるけど…破予告って「シンジの話ではない」んだよね。シンエヴァを見終わったあとでなら、柱に碇親子が据えれていて、シンジが前に踏み出す物語っていうのが判るからそう思えるんだけど、破予告で描かれる展開ってシンエヴァが終わる為に必要な物語ではなさそうなのだ。
イマジナリーで語られた?加持xカヲルの関係性など、発展しそうなポイントはあるけど、今回の終わりに辿り着くために必要そうな「14年間」は破予告にはない。あったとしても半年くらいの期間なのかな?加持が特攻するなり、アスカが復活したあとの方がシンエヴァには重要。そうするとエヴァには不要な物語ってことになっちゃう。新劇がTVシリーズくらい尺があれば別なのかもしれないけど、破予告をやると主題からズレちゃうって思った…って話。

 

ただ、Aパートの問題点のひとつとして、「シンジの行動に対する観客の捉え方は、どれだけ作品外の要素に思い入れを持っているかによって変わってくる」というポイントはあると思う。

作中の流れを追っていくと、突然シンジが家出から戻ってく来て、ケンスケの手伝いを始めただけの様に見える。もっとも、ちゃんとキャラクタを読んでいこうとすればシンジの変化も違和感ないと思うのだけど――僕は、ちょっと外から見える庵野秀明という才能に入れ込んでいる節があるので、この点は断言できない。ともかく、ヴンダーに乗らなくてはいけない、と決断する事になった黒波の崩壊に比べれば、家出の終了はあまりにも唐突だ。


あれを肯定するには、エヴァという作品が庵野私小説的作品である、というファンとしては当たり前の事柄を飲み込んでいた方がスムーズだと思っていて、色んな人がどう評価するか知りたい所ではある。
僕は、単純にアスカの言うとおり「たくさん泣いて、スッキリした」だけだと思う。

観客が感じている以上に、シンジが家出していた期間は長かったんじゃないだろうか。下手したら、数ヶ月いたかもしれない。綾波が企画した食事会の日、アスカが第9使徒に取り込まれたあの日からそれまで、時間が与えられていなかったシンジが初めて持った空虚な時間。QのNERVでの日々も、きっとストレスフルだったんだろうと考えると、時間でどうにかなった、と考えても不思議じゃないと思う。

当然、黒波の献身もトリガーではあると思うんだけど、それだけじゃないと感じた。庵野秀明本人はどうだったのか――何も手を付けられなかったのか、それとも仕事で癒やされたのか――それは判らないけれどシンジが癒やされた原因は、時間でいいと思う。これを言い始めるとまたエヴァの感想から離れちゃうので雑に済ませるけど、人が追い詰められた時、癒やされる為に必要なもののひとつは、時間だ。

 

シンエヴァ、日本の数多くのスタジオ、人員が投入されて正にブロックバスター映画なんだけど、これまでの作画とは明確に違うパートが多かったのもこのAパートだった。たぶん田中将賀担当だよね?って所も多かったし、背景もずいぶんと印象が違う。ジブリ畑だよねきっと。牧歌的な生活での癒やし…って一言でまとめたら乱暴すぎて情けないくらいだと思うけど、あれくらい今までのエヴァと違うっていうのを突きつけられてこそ、シンジの決意に繋がるんじゃないかな。

 

 

 

Bパート、そしてCパート。
視聴前に観客が思い描いていたエヴァンゲリオンがいよいよ始まる。14年間の謎もいくつか語られて、話がマクロの方に引っ張られていく。

ただ、ここでも惹かれたのはキャラクタの心の動きだった。これも、今までのエヴァにはないことだった。

いや何というか…TV版含め、キャラの心情に興味が無かった訳ではない。だけど、キャラクタがどう考えているかに興味は持っても、その心の機微に素晴らしさを感じたことは無かった。ほぼ唯一、破のラストでシンジが綾波に対して行った決意に震えたくらいだ。(それに加えて、破の綾波でのぽかぽかしていく過程。もっとも、こちらはTV版とのギャップという力もあるので純粋に惹かれた、とは言い難い)


しかしBパートでは、チルドレンは当然としてミサト達の所作にも注目する事が多かった。Cパートでは使徒の力を解放したアスカの不退転の決意、マリが唯一アスカの名前を呼ぶという驚き、そしてミサトがいまだシンジの保護者と叫ぶ、あのシーン。まだまだ細かい点も多く。

ロボットものとしての展開はエヴァなのに…なんてエヴァらしくないんだろうと思う。このあたり、各キャラクタが「昔の庵野秀明」から自立して、ひとつのキャラクタになっているように感じる。

 

Bパートは特に、アスカとマリの絶妙な距離感のやりとりも興味深いけど、出撃前、シンジに一言伝えにいくアスカ――そこからのやりとりも面白い。

僕は、あそこではみかけた感想にあった「アスカがシンジを殴ろうとした理由の回答は当たってないけど、シンジが考えて決めたことに対して評価をしただけ」っていうのを支持する。あそこで明確にアスカがシンジに対してもうちょっと回答を詰めるとか、シンジが説明を求めるのは野暮だと思うんだよね。もしドンピシャだったらもう少し大きいリアクションをする気もするし…。だいたい、半分告白……というより今生の別れを言いに来ているんだから、あそこで答え合わせをするのは白ける(っていうのは個人的感触かな?)

機械的に考えれば、後のイマジナリー世界でシンジ側から「僕も好きだった」と言うシークエンスの伏線だし、アスカが「先に大人になっちゃった」っていうのはシンジという幼年期を抜けてケンスケと懇意になっているという示唆をしているシーンだから、あそこはさらっと言葉が流れていく事がリアルじゃないかなと思う。

 

Cパートになると戦闘が始まって、膨大な量のオブジェクト、大胆なカメラワークを駆使した宙間戦闘…巡洋艦をミサイル代わりにしてぶっ飛ばすという荒唐無稽なアイデアも投入された、メカバトル映像としてとてもリッチな画が長時間続いていく。

エヴァインパクト、第9使徒の開放から2号機の消滅まで、本作のバトルはここで終わっている言っても間違いはないと思うけれど、それでも印象に残っているのはそれらハイクオリティな映像ではなく、各キャラクタの吐露する感情だった。それは、破のラスト以外にはないもので、それがエヴァに足りないものだった。


ミドリの苛立ちや、サクラの戸惑いも痛いほど伝わってきた。ミドリは、「新劇からの視聴者」という立場を振られている様な気がして。観ていて同情に近い感情を抱くことが多かった。サクラも、マリとは違う意味でエヴァンゲリオンという作品にいないキャラで、Qから始まったノベルゲームだったらヒロインの1人になりそうな、シンジを理解もしているし否定もしている……という絶妙な立ち位置に納まっている。そしてその2人を黙らせるミサトの一言。
いろいろあるけど、僕はシン・エヴァンゲリオンという映画の中で、あのミサトの台詞が一番好きだ。Qで豹変したミサトの種明かし、というカタルシスもあるだろうけれど、それだけではない――キャラクタの強い心が伝わってくる。あの場で場が収まったのは、ミサトの想いが、あの場の誰よりも強かったからだと思う。ミドリも、サクラも黙らせるに足る行動を、ミサトは行ったのだ。それはシンジを送り出す、不意打ちのキスなんかよりも何十倍も素晴らしい行為だ。

 

ヴンダーの出自・同型艦の存在やイスカリオテのマリアというセリフ、ネブガドネザルの鍵の効用など、新たな謎も多く出てきたけど、それらを差し置いてキャラクタの印象が(少なくとも僕の中では)勝ったというだけでも、シンエヴァエヴァでありながらエヴァじゃない、と言うに足るといって間違いはないと思う。

 

 

 

 

Dパートは……Dパートは。なんて言ったらいいか判らない。途中書いたかも知れないけど、最初の感想は「また人類補完計画なの…(呆」だった。けれど、進んでいくうちに、同じだけれど、全く違う事に気づかされた。

凄い事になっている、と思った。
これは97年の夏、劇場に居た人が、あの経験をした人が受け取るべき映像体験だと思った。

 

ゲンドウの描写にちょっと今更感はあったけれど、26話で描かれた「すまなかったな、シンジ」を大きく越えた展開には驚きがあった。なぜならそこには、過去に妄執するゲンドウに対して、踏み出したシンジがいたからだった。
マイナス宇宙において、戦いに意味が無いと気づいたあと、徐々にイニシアチブをシンジが握っていく。過去作では終始迷ったままだったシンジ。今作ではゲンドウの独白を聞いても、シンジは変わることなく、覚悟を持ってゲンドウの行う補完計画を否定していく。EoEで他者との分離を望んだシンジとは、別の形である。そして電車を降りるゲンドウ。シンジはそこで、他者の救済を願う。


ここは間違いなく、旧作を観ていないと驚きが減るポイントだ。新劇シリーズだけだと、破壊力はそこまで高くない…というか、リニアな展開に感じられる筈だ。ただ、旧作当時勢は補完計画の進行に対して「そんなまさか」と感じるのではないか。


製作に割ける時間の差というのもあるかもしれないけど、旧作と今作の終末について『色々な意味で肯定的にとれるかどうか』という差はこの補完計画中のシンジの動向にあると思う。

今作のシンジは、海辺でアスカの首を絞める事はしない。僕に優しくしてよ!と慟哭することもない。いやAパートを観ていれば当然なのだが、ビジュアル的にはセルフリメイクの様相を呈する補完計画が発動しても、シンジの行動がこうまで違うとは。


Zガンダムの新訳が頭を掠めるけれど、それよりも徹底的な違いがあったように思う。字数制限が厳しいあらすじを書けばEoEと似たような展開なのだ。けれど、シンジが決意した事によって綺麗に……本当に綺麗にエヴァンゲリオンを終わらせた。

救済を終えて、マリが迎えに来たあと(ここでは既に海が青い!)、宇部新川駅で新しい時が動いていく。そこにはレイもアスカもカヲルもいるけれど、それらとは一切関係なくシンジはマリと一緒に駆け出していく。そしてそのシンジは、緒方恵美では、ない。


あのシンジは別人なのか?あそこが別世界なのか?新劇は(旧劇含め?)ループワールドだったみたいだけど、それを抜けたのか?とか、さまざまな謎は残っているけれど、正直どうでもいいじゃん、って言えてしまう決定的な違いがあった。


今作ラストに不満のある人は、この先の話欲しい?って聞いてみたい。EoEのその後はかなり気になるけど、シンエヴァのラストは正直どうでもいい。シンジはなりゆきでなく、自分で行動を起こした。世界は変わった。各キャラクターにも未来が示された。これ以上何を望むのだろう?
補完計画は発動されなければいけない、ってなると、あれ以上の完結はないように思う。

97年から足かけ24年、同じ事をくり返して、それでいてあんなに肯定的な結末に書き換えて見せた。それがなにより素晴らしいことだと思う。EoEは庵野のオタクに対する「現実を見ろ」というメッセージ、というのはよく言われるけど、今回も基本的には同じ事を言っていると思う。同じ事を言っているとは思うけど、決定的に違う。

そんなこと言い始めると、また作品外――特に庵野秀明という人物を語らなきゃいけないので文字数…ってなるし、なるべくここではエヴァという作品だけにしておきたいのでこんな所にしておきたい。

 

 


総じて、シン・エヴァンゲリオンという映画はどう話すにしても作品外の要素が入って来てしまう作品だ。これを書いている最中も、何度も「これはちょっと踏み込みすぎたな」と書くのを止めた事が多かった。だから、冒頭でも書いたように、エヴァの感想を書くと、どうしても自分語りになってしまう。
それもあって、ここで終わっていいのだって思う。EoEの終わりは、思春期の終わり。シン・エヴァは青年期の終わりだ。当時シンジくんに年齢の近かった我々にとっても、ちょうどそれくらいの年月ではないか。

 

本当に――本当に蛇足めいた話をすると、エヴァンゲリオンは続いていかないな、とも思う。判りやすい例がガンダムエヴァンゲリオンが(ガイナックスが出した数々のスピンオフ等を除き)エヴァンゲリオンであるのは、庵野の作品だからだ。

新劇という凄まじいレベルの流れを作られてしまっては、更に「庵野以外のエヴァ」なんて誰も考えない。たが、(玉石混合とは言え)ガンダムガンダムたらしめているのはもはや特定個人ではない。ガンダムだけでなく、多くのシリーズにおいてそういう作品はある。
他にも、「めぐりあい宇宙」(82)のように40年以上も名作として語り継がれていくか――というのも怪しい気がしている。別にガンダムじゃなくもていい。いわゆる往年の名作に将来ラインナップされるか、というのが怪しいと思うのだ。普遍性が薄い、といってもいい。


エヴァという作品には、力があるものの強烈なドラマツルギーがあったとは思えない。
とんでもなく面白い作品であった。夢中になった。人生が変わった。ただそれらは、この感想の途中に述べたように魅力的なキャラクター・物語に牽引されているというよりは、これまでにない膨大な世界背景、気持ちよく観られる演出によって作られた勢いだったと、今は思う(勿論、僕が単に飽きた、というだけかもしれない)


そのあたりは、富野・宮崎・押井といった強烈な作家性を持った監督陣と比べてしまっているから感じるだけかもしれないが……庵野秀明はまだこれからも作品を作っていくだろうか、そこでまた評価されていくのかもしれない。

 

くり返すけど、シン・エヴァンゲリオンの終わりは当時思い描いていたほどグッとこなかったし、けれど、子どもだった頃には思っていたよりも心に沁みた。

テンションは上がっていなくても、本当に見て良かった。エヴァは、終わった。

 

 

とにかく、今は、これだけ。

庵野監督、おつかれさまでした。