Tears of Kingdom

 

 傑作であった。

 傑作……ではあったのたが、今作ToKはどういうタイプの傑作だったのか?前作であるBreath of the Wildはプレイして1時間もしたら「…これは歴史に名を残す傑作では?」と打ち震えるタイプだったが、今作ToKは「やっていることが凄まじいのだが、どう凄いのか言語化に苦しむ」という印象から始まった。
 前作と同じように、最初に能力を獲得していくチュートリアルフェーズは、行うべき事が複雑化しているせいか、新鮮味が薄れているせいか正直かったるく感じる。しかし、この先凄い事が待っているのだろうなと感じさせる自由度・ビジュアル・そして世界の空気に引っ張られ…ハイラルの大地に降り立ったあとはプレイが止まらなかった。
 今はメインチャレンジ、祠、エピチャレをコンプ、ミニチャレは半分くらい、マップは達成率65%くらい…で書いてる。まさかこんなに素晴らしい続編が出てくるだなんて……。


 人気作品の続編、というものは歴史上いくつも存在する。そもそも多種多様なゼルダシリーズの中にも「その後を描く」というタイプの続編が存在するくらいだ。しかし、こんなにも見事に「直接の続編」をやっているものを、僕は他に思いつかない。ToKは、「同じようなフィールド」「同じような登場人物」を使って、かなり違うプレイフィールを提供しながら、新しい物語を描きっている。
 そしてそこで描き出されているものは、BotWよりも数段上の——ひいては、ゼルダシリーズ全体でも最上級の——ビジュアル・ストーリーだった。
 
 ゼルダというシリーズは、全体的にはストーリーが薄め……というかゲームプレイ上語られる物語そのものは比較的アッサリとしているものが多かった。ゼルダの風潮として、王道ファンタジー風味が多かったという点でも、プレイヤーに衝撃を与えるような物語構造にはしづらかったのではないだろうか。そして、オープンワールドの新境地を切り開いた、"オープンエア"である前作は、余計に複雑な物語構造と相性が悪かった。
 しかし、今作はゼルダでありながら、オープンエアでありながらも強固な物語を展開し、プレイヤーに主要キャラクターへの強い感情移入を起こさせ、Switchでありながらも圧倒的に美しいビジュアルも相まって、とんでもないビデオゲーム体験を提供してきた。基本的にはフィールドを歩き、殆ど物語が進まない時間が多い作品でありながら、キーポイントではオープンワールド作品とは思えない、感情を揺さぶる展開が行われる。前作が孤独な時間が多かったのも相まって、今回は"絆"をこれでもかと感じる、強い物語体験を得ることがきた。


 恐らくこれは、"続編"であることも大きい。
 ハイラルの世界は、前作BotWをベースとしながらも、フィールドも変わり、そこに住む人々も変わっている。明確に示されてはいないが、読解が苦手な人でも「数年経ったんだな」と判る変化がそこかしこにある。変わらないもの、変わったもの、これまでのことを引きずりながら前へ向かおうとする世界。単なるRPGだったら、恐らくここまで多種多様に描写することはできなかっただろう。
 特に、前作でも人気キャラであった英傑ミファーの弟であるシド王子の描写は、前作経験者ならかなり魅力的に映るのではないだろうか。(共闘キャラとして性能がイマイチなのが残念だが)彼は、前作ではノー天気な三枚目キャラという印象に終始するのだが、今作は一族の王位継承者として責任感を持ち、姉を救うことができなかった負い目を未だ抱えながら闘う…少しだけ成長した姿が見える。「立派になった」姿が出てくる訳ではなく、少し変化がある…くらいの状態で登場するのが、本当に直接の続編を感じさせて良い案配になっているよう、僕には思えた。
 BotWは「これからのオープンワールドはこうでなくちゃ」というものを見せつけ、実際にフォロワーも登場していくほどの影響を見せた。そしてToKはオープンワールドで強い物語を駆動させていくというのはこういうことだ、というのを見せつけた作品だったと思う。もちろん、これまでにも強いシナリオで引っ張っていくオープンワールド型作品は登場しているが、レールが敷かれていて、それを辿っていく必要があるタイプのものが多かった。それを、BotW同様に「やってもいいし、やらなくてもいい」としながらもプレイヤーを物語に没入させる演出は、本当に素晴らしかった。
 
 そして、当然ながらプレイヤーが干渉できるものごとの多さ。これは正直前作を大きく超えていると思う。クエストのバリエーションも増え(直接検証した訳はないが、能力のバリエーション増に伴い、中身も多岐に渡っているように思える)、ウルトラハンドで作られている訳の分からないオモシロ機械は、前作プレイ時に「何でもできる」と思わせた感覚を大きく超えた自由度を我々に提供している。
 圧倒的なフィールドを踏破していく、というプレイ内容は変わらない(それも、そのうち数割は前作と同じだ)にも関わらず、使える能力が違うだけでここまでプレイフィールが違ったものになるというのも、"続編"として素晴らしい事だと思う。
 今作は事前に告知されていた空のフィールドに加えて、広大な地下、そして地上のそこかしこに追加された洞窟が存在する。前作で見知ったはずの地上でさえ、財宝などが設定された洞窟探しが加えられ、本当にフィールドが3倍になったように感じた。それぞれのフィールドに意味があって、それが大成功しているかというと全肯定するほどではないのだが…BotW/ToKはやはりフィールドが作るゲームなのだな、というのを感じさせるボリュームはあった。
 敵キャラクターの種類も増え、前作が抱えていた後半部でのマンネリも解消され、チュートリアルの長さを除けば本当に欠点のようなものが見当たらない作品になったと思う。
 
 僕は前作をガッチリと遊んだので、同じフィールドについても数年の変化を時折感じながら旅をすることができたのだが、今作が初見の人はどう思っただろう?恐らくかなり印象が違う筈だ。それくらい、BotWと「世界が繋がっている」感覚を持ちながら旅をする事ができた。
 
 ゼルダのアタリマエを見直してもう10年、その間に出た大作ゼルダは神トラ2とBotWだけだが、それでも、もうこれこそがゼルダだと人々に印象づけるようなBotWからの見事のアップデート。前作に足りなかったと思えるものをひたすらに足し、良かったものは更に磨きをかけ、人々をハイラルへと誘う、そんな作品がToKだった。
 ゲームプレイの最終盤、長いムービーが続きながら最後の戦いが行われているところからもう感情を全力で殴られっぱなしで、そしてプレイヤーが入力すべき最後のボタン操作は、あれはもう涙を流しながらボタンを押下したのを覚えている。現状ToKにしか成し得ないあの演出。
 あれほどまでに美しいゲームの終わりは、中々存在しないのではないだろうか。

 

 冒頭に貼った画像の意味、最後までプレイした人は理解してもらえると思う。本当に素晴らしかった。次のゼルダの出来が恐い。

耳をすませば-Whisper of the Heart-を観た

 とりあえず、予告を初めて見たときに感じた「松坂桃李と清野名菜のスケジュールを抑えられたから、そこから企画始めて大きな予算かけずにいけそうなものを選び/作ったんでしょ?」っていうのは言い過ぎたと書いておきます。そこまで酷くなく、順当なものを作ってきた。

 


 そしてはじめに、僕はTwitterの感想でもよく点数表記を使うし、この後も何回も使うんだけど、これは単に「自分がどれだけ満足できたか」という指標だというのを前置きしておきたい。こういう娯楽の点数表記なんて自己満以外の何物でもないんだけど、でも他人に伝えるときにやっぱり点数表記ってのは便利なので使っている。だからまあ、作品のデキとしての点数を表している訳ではないということを承知して欲しい。

 


 耳をすませば。個人的には「マイナス点をつけるだろう…また邦画にある原作破壊ムービーだな……」決めつけてかかっていたんだけど、思ったより優秀な二次創作ムービーでした。原作ファンとして観ると70点くらい?単体映画作品としてみるとうーん…こういうオーソドックスな純愛作品が好きな人には80点くらいかな。
 もっとも、ジブリ版を信奉している身としては「…これ作る意味あった?」というのは感じるところであって、「10年後の2人を描く」という触れ込みを考えると出てきたものは40点くらい。これくらいやらなきゃだめだよね、というのだけ抑えてきた感じ。
 基本的にネタバレはしないように書く。そのために言い方が曖昧だったり、実例を挙げてなかったりするが、それはスタンスとして仕方ないと思って下さい。……が、予告編で「翼をください」が流れていことくらいは知っておいて欲しい。

 
 いちおう、この映画のややこしい立ち位置も書いておく。
 まず、原作の「耳をすませば」はりぼんで1989年に連載された少女漫画だ。そしてたぶん、作者である柊あおいからすると完全に満足をした終わりを迎えた作品ではない。コミックスも1冊で終わっている。
 そして、それの”一部分”を基にして宮崎駿が勝手に脚本を書き、近藤喜文監督が作ったのがスタジオジブリ版のアニメ映画で、ストーリーラインからキャラクターの設定も全然違う。そもそも原作には天沢聖司の兄など、アニメ版には存在しないキャラクターもおり、年齢設定も違えば雫が創作作品を完成させることもない。(そして、これらの要素をミックスした小説版もある)
 
 なぜこんな相違点を書くかというと、今回の映画版は比率的には明らかにジブリ版の続編だが、それでもいくつも違いがあって、更なるパラレルワールドとなっているからだ。実写化で違いが出るのは当然だろ、という声もあるだろうが、実現が難しくない部分も含めて明白な違いが存在しているので、企画当初から別モノとして脚本を書いたのだろうと思う。
 書くのが遅れたけど、僕は柊あおいの漫画が好きで、原作も好きだし、スタジオジブリ版に至ってはジブリアニメでいちばん好きな作品……どころか自分の好きなアニメーション作品でトップを争うくらい大好きな作品だというのは書いておく。要するに原理主義者に近い。
 で、そういう視点で見るとよく頑張って原作・ジブリ版の描写を拾ってきていて、台詞なんてそのまんまのものもあるし、そっくりにしているカットも多い。10年後の現在と、10年前の過去が入れ子構造になって描かれる手法は、そういった原作の一部分だけ抽出して描写するのに適した省エネのやり方だと思う。要するに、過去作ををないがしろにすることなく、上手く映像化している。飛び飛びになってはいるものの、過去パートはなんとなく少女漫画的な展開を補完して観れるようにはなっていて、破綻してはいない。
 
 ただ、映画全体の出来がどうかというと、少し散漫というか……「で、いま実写化する意味あった?」というのが正直なところだ。
 確かに一本の映画として成立してはいる。TVドラマでやるには予算・演出・尺的にも難しいと思うし、つまらない訳ではない。ただ、(僕にとっては)大傑作であるあのジブリ版の10年後がこれ!って出してくるにはあまりにも平坦だ。
 よくある少女漫画の展開が飛び飛びの過去パートで描かれ、同時進行で仕事と将来の夢に悩む雫が描写されるのだが、雫の現状はここで書いたように「仕事と将来の夢で悩む」と10文字でまとめられる以上のものではない。10年経っても聖司のことを信頼し、文通を続け、互いに想い合っている。これは過去作終了時と変わらず、本編を通じて揺らぐことはない。となると、過去作との相違点はこの10文字だけになってしまう。
 ……95年のアニメの続編を実写化するのに、忠実にやるならともかく、未来を描くって言ってるのにこんな何もないOLの姿でいいの?
 
 僕がジブリ版を大傑作だと思っているのは、原作から年齢設定が変わり中3になったことで雫の抱える悩み・焦燥感が圧倒的なものになっていたからだ。ただの本好きの女の子が、仲良くなった男の子が大きな夢を持っているのを見て、自分の姉が社会にコミットしようとしているのを見て……自分の将来に向き合い、がむしゃらになって親に反発してまで創作へ傾倒し———最後は中3のうえ、まだ付き合ってもいないのに「結婚しよう!」で終わる。なんて素敵な幻想に満ちあふれた少女漫画なんだろう。100点満点で1000点以上つけたくなってしまうような、他にはない唯一無二の力を持った作品だと思う。宮崎駿の妄想力は凄い。(余裕があれば、wikipediaジブリ文庫などで制作経緯を読んでみて欲しい)
 
 10年後を描いた実写版で、こういった巨大な感情が描かれていたかというと、そんなことはなかった。確かに人生の岐路は描かれていたが、なんというか、悪い言い方をすれば「ありふれたもの」だった。
 例えば、ジブリ版では「夢/進路/他者との比較/自己表現」といった思春期ならではの痛烈な悩みが軸となり、恋愛で最後まとめていた。今回の映画、10年後の軸が「夢/仕事/将来」あたりが軸になるのはまあわかるのだが、ジブリ版で感じられる焦燥感はなく、多くの人が「あー社会人になって少しすると大変だよねー」と同意するレベルになっている。同意できないよりは全然マシなのだが、(個人的には)作品のレベルが数段落ちてしまっていて、単に未来の1パターンを確認できる以外の感情が起こらないのだ。実際、作中の悩みはあっさりと解決する。
 だから、最低限思いつくことはやったよね……でもそれ以外10年後のパートで褒めるところないよね?って事で赤点になりそうな点数、40点にした訳だ。
 もっとも、下手に雫と聖司の関係を悪化させたりしなかったことは本当に英断だと思っていて、下手に話を盛り上げようとするなら、理不尽な障害を置いて雫を慟哭させればいいんだけど、そういったことがなかったのは個人的に大きな評価点だった。天沢聖司の超絶とした……けれど気取っていない少女漫画のヒーローっぽさは松坂桃李が完璧に再現している。松坂桃李ちょお格好いい……。(過去パートの中川翼も良い芝居してると思う)
 
 ま、要するに、前述したように平坦なのだ。悪い感情もそこまで起こらなければ、なるほど!と思うことも無いし、各キャラクターの行いに涙することもない。これくらいは書いてもいいと思うけど、エンドシーンまで焼き直しだ。だから、商業作品というより2次創作の1つ程度と考えるべきだなこれ……と思ったのだった。それで冒頭の得点に繋がる。
 単なる恋愛映画としてみるなら、過去パートが飛び飛びになっているせいで散漫な印象を受けかねないし、過去の名作の続編とするなら変更点が多いうえ10年後パートが希薄すぎる。下手に映画単体として破綻していないぶん、語るのが難しい作品になってしまったと思う。
 
 つけ加えるなら、全体的に芝居が大仰で舞台っぽいのも気になった。これはさすがに演技指導のレベルの問題だと思うけれど、顔の表情変化が大仰なキャラが多く、かつ台詞が少し実写映像っぽくない印象を受けたのだ。(どうでも良いけど、おじいさん役の近藤正臣の芝居がいちばん自然でのめり込めた)具体的に言うと、小説用に書いたシナリオを脚本に落としこんで、それを台本のまま読んでる印象があって——特徴的なのは「え?」という聞き返しや「あ、えと…」など困った時のどもりの台詞。漫画、特にアニメでは多く使われる描写だと思うけど、実写で使うにはあまりにも頻繁に登場していて不自然に感じた。
 そして過去パートはこの大仰な感じが顕著で(恐らくジブリ版を元にしているせいだと思う)、見ていて気恥ずかしくなることの連続だった。2時間弱の映画なのだが、開始15分で「この映画あと何分かな……」と腕時計を確認したのは久々だった。
 僕はどちらかというと舞台の大仰な芝居が苦手で、これはだれかがアニメの声優芝居がわざとらしくて嫌いだ、って言っているレベルの、嗜好のレベルの話だと思うんだけど、今回はそれに引っかかってしまった感じ。役者さん達はふつうの現実で活動している映像が流れているのに、出てくる言動が何か感覚的に違う……といった印象だった。まあ、雫のキャラ設定として「表情がコロコロ変わる、感情豊か」というのがあるので、雫に関してはそういう演出意図があったのかもしれないが……。
 
 そうなると、妙な再現度の過去作オマージュも少し気になってくる。最大の不満点は——これは恐らく多くの人が挙げるポイントだと思うのだが——主題歌が「カントリー・ロード」から「翼をください」になっている事だ。……なんで変えた?ジブリ版を象徴する要素のひとつでは?
 今回の映画の冒頭で流れたとき、いちおう演出意図というか、なぜこの曲が選ばれたかは充分理解した。それくらい強烈なメッセージ性を感じるカットだったけど、あれ過去作のストーリーラインを知らないと伝わらないうえ、全編にわたって曲を変える意味は無かったように思う。
 権利関係など、色々な要素があるんだと思うけれど、そういった詰めの甘さをいくつか感じてしまうので、オマージュシーンに対して「あ、コレはアレだな?」と感じることはあっても、ファンとして嬉しくなる、正の感情が巻き起こることはなかった。なんというか、オマージュが多いのに正負の動きがなく虚無が続くのはある意味不思議な体験だった……。いやほんと、評価すべきかどうかここは本当に悩むポイントで、10年後の舞台設定を下手に2022年にせず1998年にしているのも頑張ったし、1998年、1988年双方共に、小道具はちゃんとしたものを使っている(携帯は出てこないし公衆電話でテレカを使うシーンもある!)頑張る気はあるんだよなぁ……。
 これも書いて良いと思うけど、コロナ禍で海外ロケができなくなったようなのだが、いかにもイタリア!なふうに画は作られていて、作り手側の努力は色々なところで伝わってくる。他の実写化邦画で印象がチグハグな作品が多い中、とても自然な雰囲気を作った努力は充分に評価されるべきだと思う。
 ああそうそう、主役2人の役者は現在過去とても似ていて、よく松坂桃李/清野名菜に似せたなあ!と感じるくらい。途中それが強烈に効く効果のシーンがあって、そのシーンだけで映画の満足度が大幅に急上昇した。……苦笑。
 
 次々と僕がケチをつけるような点を挙げてしまっているが、まあ……「耳をすませば」というタイトルでなければ煩くない恋愛映画の秀作のひとつ、で終わっていると思う。それゆえにそこそこの点数を映画単体としてはつけているんだけど……。この映画の最大の褒めるべきポイントとしては、邦画としては基にした作品をかなり頑張って再現しようとしていること。そしてこの映画の最大の不満点は僕が大事にして欲しいと思ったことが何個もハズされたこと、だ。
 実際、偉そうな言い方になってしまうが、原作者である柊あおいにとっては、作られて嬉しかった作品なんじゃなのではないか、と思う。基本的に破綻していないし、原作→ジブリ版ほど大きな改変があるわけじゃない。ジブリ版からまっとうな計算をして10年後のパートを足した"だけ"の作品だ。
 
 僕は最終的にこの映画は認めない訳じゃ無いけど、「耳をすませば」というタイトルがついた作品の系列に頭の中で連ねることはしないと思う。それくらい過去作が好きだし(柊あおいの別作、「星の瞳のシルエット」も傑作少女漫画なのでぜひ読んで欲しい!)、今回の映画にはノれなかった。だからといってダメ映画に推す訳じゃない。人に薦める可能性だってある。
 ただ誰かに面白かった?観に行った方がいい?って聞かれたら……どう返答したらいいのか迷う。原作がそこそこ好きなら行っても良いんじゃない?くらいに落ち着くのかな。そもそも恋愛映画が好きかどうか確認しなきゃいけないかもしれない。とにかく評価が難しい出来になってしまったと思う。まあでもそれは原作付き作品の性だから仕方ないか……。
 

 最後に、どうでもいいことをひとつ。

 作中の台詞で無理に「耳をすませば」って使ったり、「Whisper of the Heart」とかいう英題を付け加えるのは大嫌いでした……

シン・エヴァンゲリオン

シン・エヴァンゲリオンを観た。

 

思っていたよりもグッとこなかったし、思っていたよりも心に沁みた。
公開前から全然心は動いていなくて、19年07月06日、東京新宿で観た冒頭の映像をピークに、僕のテンションは落ちていく一方だった。さすがに最初に20年6月公開の時にはそわそわとしていたが、公開日が伸びて、21年に入るともうエヴァの公開について一喜一憂する事はなかった。
チケット争奪戦には加わらなかったし、前日まで「僕はいつ観るんだろうなぁ」なんてぼやっと考えていたりもした。……とはいえ、公開3日後には観たのだけれど。

エヴァは、弟の塾の先生が生徒たちに「凄いアニメが始まる。絶対に観ろ」とかいって白黒コピーのプリントを配ってきたところから知った。(当然もう手元にないけど、漫画版1巻のコピーだったと思う)小学生が、初めて録ったビデオをコマ送りで観る作品となった。20話の濡れ場は居間で流しづらくて、思わず別部屋の小さいテレビで観た。家族旅行先で24話を観て、初号機がカヲルを握ったまま動きがないことに家族の前で気まずかったのを覚えている。

 

……なんて、シン・エヴァの感想を書き始めたのにどうしても自分語りになってしまう。結局そういうことだ。エヴァはもう人生と切っても切り離せない。それは当事者である庵野監督だけでなく、スタッフ・視聴者含めどうしても人生を語ることと同義だ。
だから、今回は人のレビューを読んでも、対面じゃない限り何も言わないようにしようと思った。シン・エヴァが面白いという人もいるし、絶対的に許せない人もいる。そして、僕は今作については「駄作だ」って言われても全然構わないって思った。それがその人の人生だ。興行収入100億行く!とか嘯いている映画ライターもいたが、僕はそんな作品だと思わない。行ったら奇跡…とは言わないが、それだけエヴァに人生を狂わされた人間が多かった、と僕が見誤っていただけだなと思う。

 

 

シン・エヴァンゲリオンで僕がいちばん素晴らしいと思ったのは東宝スタジオの演出だった。世田谷・砧の第8ステージであることを暗示(明示?)する一連のシークエンス。エヴァは特撮から始まって特撮で終わっていく。人類補完計画をはじめ、作品内での設定が、どれだけ大きくなろうと、作品外での考察がどれだけ大きくなろうと、それだけは変わらない。エヴァはEoEを経てヱヴァになったけど、最後までエヴァだった。
作品の終末についてもTV版、EoEに続き(粗っぽく言えば)またも人類補完計画であった。最初はまたそれかよ、と思いながら観ていたが、次第にそこに着地することに安堵と感謝が湧き起こってきた。庵野秀明がやろうとしていることは25年前から変わっていないんだという驚愕。そして、今作の落とし前がどういう描写になるのかという――今まで観てきたけれど、誰も観たことのないエヴァを観られるという高揚。

面白くないわけがなかった。

破で突破したと思ったヱヴァが、Qで「またあのエヴァが帰っきちまった…」と当時勢の頭を抱えさせる勢いだったのに対して、今なら言える。エヴァが面白くない訳ないじゃん、って。

 

どうもエヴァの事を書いていくと脱線していく。
東宝スタジオ、マイナス宇宙でのやりとりはいくらでも考察ができる。そもそも描写からしてメタであり、それまでがキャラクタの劇中劇だったと言うこともできるし、スタッフの遊びとも言える。あそこにある機材はきっとシン・エヴァ制作に使ったものだろうから――
とか、考察はつきないんだけど、もはやそんな考え事は僕には要らない。それは破を観て、Qを経た後に自分の中で卒業した。「答え合わせをしようとする」のは終わった。エヴァは、フィルムと、そこから自分が受け取った感情だけで完結すべきだと思った。それがたぶん、冒頭に書いた「テンションの上がらなかった理由」だ。もはやエヴァは自分の人生の一部だ。他人とあーだーこーだ言うのはきっと楽しい。けど、誰かの指摘を受けて「なるほど、考察が間違っていた…」などと振り返るタイミングは終わったのだ。
僕は、東宝スタジオでの殺陣が始まって、改めて「エヴァは創作であり、過去作品への愛で溢れている!」という叫びを、猛烈な叫びを身体に浴びたように感じた。そこからは旧人類補完計画を想起させる演出が続いてくが、スタジオ描写があったことで過去のそれらより肯定的なメッセージだったように思えた。

 

 

そんな一点突破な事だけじゃなくて、シンエヴァ全体のことで言うと、何より各メインキャラクターにしっかりと作品世界での終わりが与えられた事が幸せだった。もう出てこないと思っていた同級生、トウジ・ケンスケ・そしてヒカリ(!)にすら先の人生が与えられ、キャラクターとしての着地点が与えられた。続投キャラだと、とても大きな変化がないっていうのはマコト・シゲル・マヤのオペレータ3人くらいじゃないだろうか。
それは旧来のエヴァンゲリオンという作品を考えたときに、ありえない事だと思う。
弐拾六話は終始シンジの描写に終始し、26話でも基本シンジを軸に進んで最後は例の「気持ち悪い」で終わる。おおまかなストーリーラインは前2回と同じなのに、物語を彩ってきたキャラクターにちゃんと幕引きをあげるのは、とても優しい事だと思った、そしてそれが、僕に「ほんとうにエヴァは終わった」と感じさせた大きな理由だと思う。……そう、人生。シン・エヴァは僕の人生でもあったし、キャラクターの人生でもあった。
良かったね、シンジ。良かったね、アスカ。良かったね、みんな。

 

 

そうそう、カップリングについてあーだーこーだ叫ぶ人達がたくさん出るに違いないけど、そういう人達に批判されてもなお、僕は今回のキャラクタの去就が完璧だったって思う。観ている最中はシンジとマリがくっつくの!?って思ったけど、鑑賞後頭の中で考えをまとめていると、シンジがマリの傍にいるのは当然のことのように思えた。(恋人同士かは、ちょっとまだ判断がつかない)
シンジとアスカ、シンジとレイ、シンジとカヲル…旧世紀に叫ばれたメインのカップリングは、破綻していくように思う(…っていうと、そのCP勢に罵倒されちゃうね…苦笑)。実際、SF的な要素を抜いていちばんありそうなシンジ・アスカはEoEの描写で上手くいきそうにないことが強烈に描写されている。


そこでアスカ・ケンスケだなんて!なんて完璧なんだろう。劇中は互いに上手くいく訳ないだろうという諦観めいた、別れたものの憎からず…といった距離感の描写しかなかったけれど、補完計画を経て第3村に落着したエントリープラグのシーン。あれを見て良かったね、アスカ!と思わない人はシンエヴァを読み間違えていると思う。

シンジのペアがアスカやレイじゃなくて、なぜマリになったか…破の段階では、2人を選ぶ事もあったかもしれない。けれど、時は流れた。綾波は取り込まれて死んだ。アスカは、彼の知らない14年を生きてしまった。(実際、互いに「好きだったよ」と言葉をかけあっている)そうしたたら、アスカ・レイを選ぶ/選べる訳がない。

破、Q、シンエヴァと来て、シンジに覚悟ができ、一歩大人になったからこそ、2人じゃない。カヲルも、シンジを甘やかしたいだけだから、未来に踏み出すパートナーとしては駄目だ。
マリが結局何者だったか、最後まで判らないし――庵野が結婚して幸せに序破を世に放ったことからマリ=安野モヨコって言ってる人もいるけど、僕はマリは一貫して単に「庵野秀明じゃない人」だと思う。破から映画3作を経て、それがかみ砕かれた…庵野秀明が動かすキャラになったという印象だった。だから、マリなんだと思う。インパクトがなくなった世界で、シンジと手を繋いで駆けていくのは、作中ではマリしかいない。だからモヨコだって訳じゃなくて、あれは「他人」ってことなんだ。(それもあって、恋人かどうか、っていうのは僕には判断つかない)

 

 

 

Aパート。
最初に書いておきたいのは、3.11云々っていうのはもう辟易してるっていうこと。たった2日間くらいでも、「もう311はいいよ」「311を経てエヴァは」とか、そういった感想が聞こえてきた。

違うでしょう。Qがあって、あの世界にはサードインパクトがあったんでしょう。そして、ギリギリの生活をしているだけでしょう。
確かに、311があったから、描写――そして我々観客に与えるイメージは「もし311を経験していなかったとき」に比べて圧倒的に違うと思う。じゃあ、311がなかったらあのAパートは無かったのか?
絶対にありますよ。Aパートは必要です。今回の着地地点に繋がるために(まぁ、311を含む、実際の歴史があったから今現在の庵野秀明がある、と言われればそれまでだけど)ネルフ・ヴィレ以外の「人々」との交流・描写がシンジやアスカには必要なはず。311を横に置いて語るのはいい、けれど「まず311があって」とAパートを語るのはお門違いだと思う。Aパートは、シンジが再びエヴァに乗るまでの、「オトシマエをつける気になる」パートだ。
だから、あんなに長い尺を使って描かれている。(エヴァの戦闘パートより長い時間使ってAパートは描かれている…筈だ)これまでのエヴァンゲリオン…例えば、TV19話だったら、Aパートは要らない…とは言わないが10分もあれば十分だと思う。だけど、それでは今作のラストには繋がらない。マイナス宇宙で、アスカやレイ、カヲルの救済を願い、他者や世界の復活を自分よりも優先して行うシンジには、繋がらないのだ。第3村で、大人になった友人達、苦しい中生き抜く人々に癒されたからこそ、あのシンジがある。それに対して、311がどーのこーのは必要ないと思う。(くり返すけど、添え物として置くのは当然構わない)

 

また、Qの時に「なぜ14年飛ぶ!?」って思ったことに、すごい良い具合に回答になっていることも、このAパートの素晴らしさがあると思う。97年のEoEから大体14年で12年公開のQ。確かQのパンフに「過ぎてしまった年月を、役者の方に合わせた」っていう意味合いの事が書いてあったけど、子ども達が14年後だと29歳近辺、つまり昔のミサト達と同じ年齢になってるんだよね。(新劇は判らないけど、旧エヴァ19話は2016年5月頃。シンジの誕生日は6月なので、同じだとすれば破のラストは15最直前。)
眠っていたシンジはともかく、アスカの心が大人になって、トウジ達がシンジを支える側になるまでに十分な時間。なぜ時間を飛ばしたのか、そんなの必要ないじゃないか、破の予告を返せ、というQの時の我々の叫びに対する、かなり上等な――そして斜め上のアンサーだと感じた。こうじゃないと、EoEで到達できなかった地平に辿り着くことができないよね、って今では思える。新しいエヴァ


…さっき考察はどうでもいい、って書いたのに裏読みかもしれないけど、これは表に見えるキャラクタの……世代の話だから、これくらいはいいよね。

 


ちょっとAパートの話から逸れるけど、破予告は、もうやらないだろうなって確信めいたところに辿り着いている。庵野が物語の省略をするから、というのもあるけど…破予告って「シンジの話ではない」んだよね。シンエヴァを見終わったあとでなら、柱に碇親子が据えれていて、シンジが前に踏み出す物語っていうのが判るからそう思えるんだけど、破予告で描かれる展開ってシンエヴァが終わる為に必要な物語ではなさそうなのだ。
イマジナリーで語られた?加持xカヲルの関係性など、発展しそうなポイントはあるけど、今回の終わりに辿り着くために必要そうな「14年間」は破予告にはない。あったとしても半年くらいの期間なのかな?加持が特攻するなり、アスカが復活したあとの方がシンエヴァには重要。そうするとエヴァには不要な物語ってことになっちゃう。新劇がTVシリーズくらい尺があれば別なのかもしれないけど、破予告をやると主題からズレちゃうって思った…って話。

 

ただ、Aパートの問題点のひとつとして、「シンジの行動に対する観客の捉え方は、どれだけ作品外の要素に思い入れを持っているかによって変わってくる」というポイントはあると思う。

作中の流れを追っていくと、突然シンジが家出から戻ってく来て、ケンスケの手伝いを始めただけの様に見える。もっとも、ちゃんとキャラクタを読んでいこうとすればシンジの変化も違和感ないと思うのだけど――僕は、ちょっと外から見える庵野秀明という才能に入れ込んでいる節があるので、この点は断言できない。ともかく、ヴンダーに乗らなくてはいけない、と決断する事になった黒波の崩壊に比べれば、家出の終了はあまりにも唐突だ。


あれを肯定するには、エヴァという作品が庵野私小説的作品である、というファンとしては当たり前の事柄を飲み込んでいた方がスムーズだと思っていて、色んな人がどう評価するか知りたい所ではある。
僕は、単純にアスカの言うとおり「たくさん泣いて、スッキリした」だけだと思う。

観客が感じている以上に、シンジが家出していた期間は長かったんじゃないだろうか。下手したら、数ヶ月いたかもしれない。綾波が企画した食事会の日、アスカが第9使徒に取り込まれたあの日からそれまで、時間が与えられていなかったシンジが初めて持った空虚な時間。QのNERVでの日々も、きっとストレスフルだったんだろうと考えると、時間でどうにかなった、と考えても不思議じゃないと思う。

当然、黒波の献身もトリガーではあると思うんだけど、それだけじゃないと感じた。庵野秀明本人はどうだったのか――何も手を付けられなかったのか、それとも仕事で癒やされたのか――それは判らないけれどシンジが癒やされた原因は、時間でいいと思う。これを言い始めるとまたエヴァの感想から離れちゃうので雑に済ませるけど、人が追い詰められた時、癒やされる為に必要なもののひとつは、時間だ。

 

シンエヴァ、日本の数多くのスタジオ、人員が投入されて正にブロックバスター映画なんだけど、これまでの作画とは明確に違うパートが多かったのもこのAパートだった。たぶん田中将賀担当だよね?って所も多かったし、背景もずいぶんと印象が違う。ジブリ畑だよねきっと。牧歌的な生活での癒やし…って一言でまとめたら乱暴すぎて情けないくらいだと思うけど、あれくらい今までのエヴァと違うっていうのを突きつけられてこそ、シンジの決意に繋がるんじゃないかな。

 

 

 

Bパート、そしてCパート。
視聴前に観客が思い描いていたエヴァンゲリオンがいよいよ始まる。14年間の謎もいくつか語られて、話がマクロの方に引っ張られていく。

ただ、ここでも惹かれたのはキャラクタの心の動きだった。これも、今までのエヴァにはないことだった。

いや何というか…TV版含め、キャラの心情に興味が無かった訳ではない。だけど、キャラクタがどう考えているかに興味は持っても、その心の機微に素晴らしさを感じたことは無かった。ほぼ唯一、破のラストでシンジが綾波に対して行った決意に震えたくらいだ。(それに加えて、破の綾波でのぽかぽかしていく過程。もっとも、こちらはTV版とのギャップという力もあるので純粋に惹かれた、とは言い難い)


しかしBパートでは、チルドレンは当然としてミサト達の所作にも注目する事が多かった。Cパートでは使徒の力を解放したアスカの不退転の決意、マリが唯一アスカの名前を呼ぶという驚き、そしてミサトがいまだシンジの保護者と叫ぶ、あのシーン。まだまだ細かい点も多く。

ロボットものとしての展開はエヴァなのに…なんてエヴァらしくないんだろうと思う。このあたり、各キャラクタが「昔の庵野秀明」から自立して、ひとつのキャラクタになっているように感じる。

 

Bパートは特に、アスカとマリの絶妙な距離感のやりとりも興味深いけど、出撃前、シンジに一言伝えにいくアスカ――そこからのやりとりも面白い。

僕は、あそこではみかけた感想にあった「アスカがシンジを殴ろうとした理由の回答は当たってないけど、シンジが考えて決めたことに対して評価をしただけ」っていうのを支持する。あそこで明確にアスカがシンジに対してもうちょっと回答を詰めるとか、シンジが説明を求めるのは野暮だと思うんだよね。もしドンピシャだったらもう少し大きいリアクションをする気もするし…。だいたい、半分告白……というより今生の別れを言いに来ているんだから、あそこで答え合わせをするのは白ける(っていうのは個人的感触かな?)

機械的に考えれば、後のイマジナリー世界でシンジ側から「僕も好きだった」と言うシークエンスの伏線だし、アスカが「先に大人になっちゃった」っていうのはシンジという幼年期を抜けてケンスケと懇意になっているという示唆をしているシーンだから、あそこはさらっと言葉が流れていく事がリアルじゃないかなと思う。

 

Cパートになると戦闘が始まって、膨大な量のオブジェクト、大胆なカメラワークを駆使した宙間戦闘…巡洋艦をミサイル代わりにしてぶっ飛ばすという荒唐無稽なアイデアも投入された、メカバトル映像としてとてもリッチな画が長時間続いていく。

エヴァインパクト、第9使徒の開放から2号機の消滅まで、本作のバトルはここで終わっている言っても間違いはないと思うけれど、それでも印象に残っているのはそれらハイクオリティな映像ではなく、各キャラクタの吐露する感情だった。それは、破のラスト以外にはないもので、それがエヴァに足りないものだった。


ミドリの苛立ちや、サクラの戸惑いも痛いほど伝わってきた。ミドリは、「新劇からの視聴者」という立場を振られている様な気がして。観ていて同情に近い感情を抱くことが多かった。サクラも、マリとは違う意味でエヴァンゲリオンという作品にいないキャラで、Qから始まったノベルゲームだったらヒロインの1人になりそうな、シンジを理解もしているし否定もしている……という絶妙な立ち位置に納まっている。そしてその2人を黙らせるミサトの一言。
いろいろあるけど、僕はシン・エヴァンゲリオンという映画の中で、あのミサトの台詞が一番好きだ。Qで豹変したミサトの種明かし、というカタルシスもあるだろうけれど、それだけではない――キャラクタの強い心が伝わってくる。あの場で場が収まったのは、ミサトの想いが、あの場の誰よりも強かったからだと思う。ミドリも、サクラも黙らせるに足る行動を、ミサトは行ったのだ。それはシンジを送り出す、不意打ちのキスなんかよりも何十倍も素晴らしい行為だ。

 

ヴンダーの出自・同型艦の存在やイスカリオテのマリアというセリフ、ネブガドネザルの鍵の効用など、新たな謎も多く出てきたけど、それらを差し置いてキャラクタの印象が(少なくとも僕の中では)勝ったというだけでも、シンエヴァエヴァでありながらエヴァじゃない、と言うに足るといって間違いはないと思う。

 

 

 

 

Dパートは……Dパートは。なんて言ったらいいか判らない。途中書いたかも知れないけど、最初の感想は「また人類補完計画なの…(呆」だった。けれど、進んでいくうちに、同じだけれど、全く違う事に気づかされた。

凄い事になっている、と思った。
これは97年の夏、劇場に居た人が、あの経験をした人が受け取るべき映像体験だと思った。

 

ゲンドウの描写にちょっと今更感はあったけれど、26話で描かれた「すまなかったな、シンジ」を大きく越えた展開には驚きがあった。なぜならそこには、過去に妄執するゲンドウに対して、踏み出したシンジがいたからだった。
マイナス宇宙において、戦いに意味が無いと気づいたあと、徐々にイニシアチブをシンジが握っていく。過去作では終始迷ったままだったシンジ。今作ではゲンドウの独白を聞いても、シンジは変わることなく、覚悟を持ってゲンドウの行う補完計画を否定していく。EoEで他者との分離を望んだシンジとは、別の形である。そして電車を降りるゲンドウ。シンジはそこで、他者の救済を願う。


ここは間違いなく、旧作を観ていないと驚きが減るポイントだ。新劇シリーズだけだと、破壊力はそこまで高くない…というか、リニアな展開に感じられる筈だ。ただ、旧作当時勢は補完計画の進行に対して「そんなまさか」と感じるのではないか。


製作に割ける時間の差というのもあるかもしれないけど、旧作と今作の終末について『色々な意味で肯定的にとれるかどうか』という差はこの補完計画中のシンジの動向にあると思う。

今作のシンジは、海辺でアスカの首を絞める事はしない。僕に優しくしてよ!と慟哭することもない。いやAパートを観ていれば当然なのだが、ビジュアル的にはセルフリメイクの様相を呈する補完計画が発動しても、シンジの行動がこうまで違うとは。


Zガンダムの新訳が頭を掠めるけれど、それよりも徹底的な違いがあったように思う。字数制限が厳しいあらすじを書けばEoEと似たような展開なのだ。けれど、シンジが決意した事によって綺麗に……本当に綺麗にエヴァンゲリオンを終わらせた。

救済を終えて、マリが迎えに来たあと(ここでは既に海が青い!)、宇部新川駅で新しい時が動いていく。そこにはレイもアスカもカヲルもいるけれど、それらとは一切関係なくシンジはマリと一緒に駆け出していく。そしてそのシンジは、緒方恵美では、ない。


あのシンジは別人なのか?あそこが別世界なのか?新劇は(旧劇含め?)ループワールドだったみたいだけど、それを抜けたのか?とか、さまざまな謎は残っているけれど、正直どうでもいいじゃん、って言えてしまう決定的な違いがあった。


今作ラストに不満のある人は、この先の話欲しい?って聞いてみたい。EoEのその後はかなり気になるけど、シンエヴァのラストは正直どうでもいい。シンジはなりゆきでなく、自分で行動を起こした。世界は変わった。各キャラクターにも未来が示された。これ以上何を望むのだろう?
補完計画は発動されなければいけない、ってなると、あれ以上の完結はないように思う。

97年から足かけ24年、同じ事をくり返して、それでいてあんなに肯定的な結末に書き換えて見せた。それがなにより素晴らしいことだと思う。EoEは庵野のオタクに対する「現実を見ろ」というメッセージ、というのはよく言われるけど、今回も基本的には同じ事を言っていると思う。同じ事を言っているとは思うけど、決定的に違う。

そんなこと言い始めると、また作品外――特に庵野秀明という人物を語らなきゃいけないので文字数…ってなるし、なるべくここではエヴァという作品だけにしておきたいのでこんな所にしておきたい。

 

 


総じて、シン・エヴァンゲリオンという映画はどう話すにしても作品外の要素が入って来てしまう作品だ。これを書いている最中も、何度も「これはちょっと踏み込みすぎたな」と書くのを止めた事が多かった。だから、冒頭でも書いたように、エヴァの感想を書くと、どうしても自分語りになってしまう。
それもあって、ここで終わっていいのだって思う。EoEの終わりは、思春期の終わり。シン・エヴァは青年期の終わりだ。当時シンジくんに年齢の近かった我々にとっても、ちょうどそれくらいの年月ではないか。

 

本当に――本当に蛇足めいた話をすると、エヴァンゲリオンは続いていかないな、とも思う。判りやすい例がガンダムエヴァンゲリオンが(ガイナックスが出した数々のスピンオフ等を除き)エヴァンゲリオンであるのは、庵野の作品だからだ。

新劇という凄まじいレベルの流れを作られてしまっては、更に「庵野以外のエヴァ」なんて誰も考えない。たが、(玉石混合とは言え)ガンダムガンダムたらしめているのはもはや特定個人ではない。ガンダムだけでなく、多くのシリーズにおいてそういう作品はある。
他にも、「めぐりあい宇宙」(82)のように40年以上も名作として語り継がれていくか――というのも怪しい気がしている。別にガンダムじゃなくもていい。いわゆる往年の名作に将来ラインナップされるか、というのが怪しいと思うのだ。普遍性が薄い、といってもいい。


エヴァという作品には、力があるものの強烈なドラマツルギーがあったとは思えない。
とんでもなく面白い作品であった。夢中になった。人生が変わった。ただそれらは、この感想の途中に述べたように魅力的なキャラクター・物語に牽引されているというよりは、これまでにない膨大な世界背景、気持ちよく観られる演出によって作られた勢いだったと、今は思う(勿論、僕が単に飽きた、というだけかもしれない)


そのあたりは、富野・宮崎・押井といった強烈な作家性を持った監督陣と比べてしまっているから感じるだけかもしれないが……庵野秀明はまだこれからも作品を作っていくだろうか、そこでまた評価されていくのかもしれない。

 

くり返すけど、シン・エヴァンゲリオンの終わりは当時思い描いていたほどグッとこなかったし、けれど、子どもだった頃には思っていたよりも心に沁みた。

テンションは上がっていなくても、本当に見て良かった。エヴァは、終わった。

 

 

とにかく、今は、これだけ。

庵野監督、おつかれさまでした。